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昭和42年 神戸の水害

By 2020年7月6日 No Comments

神戸の皆様、大水害は、いつやってきてもおかしくはありません。今日は教訓のため、私が体験した水害のことを綴ります。

私がまだ小学校の低学年のとき、神戸で大水害がありました。家は停電、道は、大人の膝くらいまで、水が流れ、とても怖い経験をしました。通っていた雲中小学校でも、何人かの児童が犠牲になりました。今でも、当時の恐怖心は残っています。

今も、生まれ育った街に住み続けて、その大水害のあった山でウォーキングをしています。新神戸駅から布引の滝、おんたき茶屋、見晴らし台、布引貯水池、市ケ原…。そして、布引ハーブ園。この一帯で大水害、土砂崩れが起きました。

昭和42年ですから、50年以上も前です。神戸では、昭和だけでも大きな水害が3つほどありました。花崗岩でできた六甲山、大雨がふると、地盤も軟弱なので、大きな被害になります。

昭和42年7月の水害が、一体どんなものだったのか、いくつかネットの記事を見つけたので、抜粋して掲載させていただきます。こちらは3年前の記事です。

死者・行方不明者98人、被災家屋3万8305戸に上った「昭和42年7月豪雨」。以降、六甲山では大規模な被害は出ていないが、その扇状地に栄えた神戸・阪神間は、地形的に豪雨に対する弱さを抱えている。各地で記録的な豪雨が相次ぐ中、自然とどう共生していけばいいのか。発生直後、調査に入った奈良大名誉教授の池田碩(ひろし)さん(78)=地質学、自然地理学=と半世紀後の被災地を歩いて考えた。

新神戸駅から歩いて約40分。神戸市中央区葺合町の市ケ原の集落跡に着いた。

昭和42(1967)年7月、集中豪雨で南東の世継山が崩壊し、かつてここにあった集落は山津波にのまれ、21人が犠牲になった。助かった住民も離散。集落はなくなった。現在は廃屋が点在し、生い茂った木で世継山はほとんど見えない。

昭和30年代、世継山にゴルフ場が開発された。ところが1961(昭和36)年の豪雨で一部が崩落し、中学生が犠牲になった。ずさんな開発工事が原因ではないかと裁判で争われていた。

池田さんは昭和42年豪雨直後、立命館大学の研究員として調査に入った。その崩落現場を歩き、人工的に造成された跡を確認。発生4日後の神戸新聞で、池田さんは「現場の土質は柔らかい花こう岩で、風化しつつあるもろいものだ。こんな地形を造成すること自体が問題だ」とコメントした。

ゴルフ場側は神戸市に土地を売却し、住民らに賠償。住民の中には世継山を自然に戻すよう求める声もあったが、神戸市は「手を入れ続けなければ再び崩れる恐れがある」として活用を検討し、1991年に「神戸布引ハーブ園」ができた。担当した元市職員の男性(73)は「ハーブ園の原点は災害を教訓に、環境に優しく災害に強い安全な公園を造ることだった」と振り返る。

できるだけ地形に手を加えず、広場もコースをそのまま使った。園外でも防災上問題のある木々は植え替えていった。開園から26年。男性は「まだまだ安定した森林にはなっていない」と明かす。

同市は現在、園外の森林には手を入れていない。園内にも、50年前の災害を伝えるものは何もない。なぜハーブ園ができたのか、その原点は受け継がれていない。

同市はウェブサイトで〈人口が増え、交通量も増えてくると、町を分断して流れる川はジャマモノと考えられたのです。そして上にはフタをされ、そこが道路として利用されました〉と解説。さらに〈ツケは大規模な水害という形ではね返ってきます。阪神大水害では、既に地下化されていた生田川に六甲山の土砂が大量に流れ込みました。周辺市街地は大きな被害を受け、川を地下化することへの反省も生まれました〉と続ける。

生田川は阪神大水害後、通常の河川に戻された。池田さんは進言する。

「川と人間との関わりを考えてほしい。六甲山地は変わらないのに、下流は高度成長で都市化が進んだ。人間の手が加わり、より大きな災害になり得ることを忘れてはならない」

【昭和42年7月豪雨】

1967年7月9日、西日本に停滞していた梅雨前線が熱帯低気圧に刺激され、各地に記録的豪雨をもたらした。神戸市内では10日午前0時までの24時間雨量が319・4ミリに達し、土砂災害や中小河川の洪水氾濫が同時多発的に発生。死者・行方不明者は全国で369人(兵庫県内98人)に及んだ。

2017/7/16

いかがでしたか?私の記憶が曖昧なので、一番わかりやすい記事を抜粋させていただきました。熊本の水害、そして、毎年、日本の各地で発生する水害。神戸は、とても大きな被害が起こる可能性がある、これを知ってほしい、今日は降りしきる雨に心を打たれて、綴りました。では、また明日。

(早川真)

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