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母の命日 阪神大震災25年

By 2020年7月12日 No Comments

7月12日は、母の命日です。亡くなったのは、1995年。阪神淡路大震災の年です。

神戸市中央区旗塚通の自宅で被災した母。弟とふたり暮らし。無事だった。近くの葺合文化センターに避難。親戚4世帯とともに過ごしていた。しかし、4月13日、自宅の部屋に戻ったときに、脳卒中で倒れた。入院、手術の繰り返し、7月12日、62歳で亡くなった。

当時、私は、朝日放送の「阪神大震災、あの場所は今」東海テレビ、テレビ大阪の番組、鉄道復旧のドキュメンタリー番組、竹中工務店の震災映画、パソナの震災映像など、仕事に走り回りながら、よく避難所に行って、母や親せきと談笑していました。3月ごろには、家族一緒に楽しく焼き肉にも行きました。悔しい想いは、記事になりました。

今から12年前、共同通信社の取材を受けた。

震災による関連死。当時の神戸は、曖昧だった。高血圧だった母は、薬を満足に受け取れなかった。避難所で塩辛い弁当、精神的疲労も重なった。震災死は6434人。母の死は、阪神大震災と関係ないと判断された。

しかし、その後、日本各地で地震が発生。地震後の病気でも震災死と認定されるようになった。

私は、2007年、神戸市役所の近くにある「慰霊と復興のモニュメント」の銘板に名前を記すことができると知り、07年12月、母、早川キヨ子を追加してもらった。

当時の記事の締めくくりのインタビューで私は、こう語っていた。

「『6434』は行政側がつくった数字。もっとたくさんの人が亡くなったということを、今後も伝えていく」自分にできるのはそれしかないと感じている。

この記事を書いたのは、若い女性記者だった。実は、地元のテレビ局や新聞社などにも取材依頼を受けていた。しかし、同業者である私は、当時、すべて断っていた。この女性記者、その後も何度も、連絡してきた。手紙もいただいた。同業者であるがゆえにわかるこの熱意。根負けして取材を受けた。今は、一社でも取材を受けておいてよかったと思っている。記事も記憶も鮮明に残る。この記事は、全国のローカル新聞にも掲載された。

きょうは、午後一時半から、弟の仁と家族もやってくる。西念寺さんの住職も、コロナの間、休んでいただいたが、久しぶりにお経をあげていただく。母が生きていれば、86歳だ。明るくて社交性のあった母、葬儀には200人を超す大勢の方に見送られた。

(早川 真)

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